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2019-05-26-Sun-14:28

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近頃の私はあることについて悩んでいる。
それは「正しさを求める意識に抵抗するか否か」というものである。
私の意識は常に揺蕩い曖昧であるが、しかし主観的、客観的な意識の差異による結果の如何に関わらず、常に「正しさ」を求めようとするのは事実である。

「例えばだが、今の私は倫理による群集心理作用的な対立を嫌悪する。
これを発表する時点で私も同じ事をしているとも取れるが、それはあくまで例えなので見逃して欲しい。」

上記二行の文章は現在の私が如何に正しさを求めようとしているか確認するのに的確である。
特に二行目、自身が抱える矛盾点を看過出来ないというのは、どの程度意識的に正しさを求めているかが伺える。
しかし常に「正しくある」というのは、些か連続性を持たない人の意識には荷が重すぎる。
現在の私はある程度個人的な意識作用によって思考することが可能だが、それはあくまで環境に依存するものでもあり、現在の生活がそれを促す要素を持っているというだけではないかと考えている。
一度群衆の中へ紛れると、個人的な意識作用はいともたやすく消滅し、群衆的意識の中へ呑まれていくことは必至だと思われる。
つまり私が現在の正しさを貫くに当たっての最低条件は、「個人」としての状態を維持し続けていく他に無いのである。
その最低条件はあらゆる倫理観の放棄、共感覚の消失、社会生活の破壊を意味する。
そこにしか生きる道が無いと飛び込んだ先で、しかしそこに何もない可能性の方が遥かに高いと思われる。
そして何よりもまず、私自身はもともとそれ程正しくないという問題もある。

ある哲学者の先生が仰っていたが、「勉強」を持続するには「バランス感覚」が必須なのだそうだ。
そこにしか活路がないと飛び込んでくる人間の殆どは、持続性が無く折れてしまう傾向が高いらしい。
それはいかにもこれからの私が迎えそうな姿である。何よりもまず、私は集中力や持続力が無いのである。

では何かに拘泥するのを諦め、同一や共感覚の世界に身を委ね、皆々と混じり合っていくことを目指すべきであろうか。
しかしこれも結局のところ、叶わなかった結果が現在なのである。
そもそも私はそれが分からなかったからここに居るに過ぎず、皆々と同じになれるのであればそちらに居たかった。
再びその努力を再開するには、些か苦痛がある。

持続力が無く、集中力が無く、共感覚についての理解も乏しく、バランス感覚も無く、自らが求める正しさの追求も苦しい。
このような人間は一体どのように生きるべきなのでろうか。
答えは分かりきっている。まず社会的な回答としては、能力が低い者は、何もすべきでないのである。
そのために私は群衆から離れ、個人的に生きる道を選んだが、哲学や文学に生きる意義を求めるのもやはり苦しい。私は如何に個人的になろうとも、こうしてこれをここに発表し、つまり誰かと同一になりたいという欲求を捨てきれない。何か物語を書いて、しかしそれを誰も読まないとなると、やはり苦しい。

生きることは常に不条理だ。
何もかもを諦め、徹底的に諦め、不条理という行き先の見えぬ船上にて、霧の中で揺蕩う白波に目をやりながら、ぼんやりと生きていくしかないのだろうか。
そんなことを考える現在の私は、こうしてここに死んでいくのである。

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