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2019-05-21-Tue-02:03

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前回の記事を読み返していて、自らに対する指摘がやや少なく感じた。
よって適当に追記していこうと思う。
ここに書かれるあらゆる言葉は、誰の耳にも、誰の眼にも、誰の心にも、留まるべきものでない。
しかし興味があるのだとしたら、私としてはそれほど嬉しいことは無い。

前回の記事で私は、「他者を自らと同一にしなければ気が済まない人が苦手」だと書いた。
そして「そういった相手とはまともに取り合わなくなる」という意味の言葉も書いた。
私が常々畏れている排斥について、私もまた同じようにそれを排斥しているのである。
私は社会にとってマイノリティであるという自覚があり、加えて異なる自意識は完全なる同一化が不可能な現象であると了解もしている。
もし、私が徹底して「排斥」について嫌悪する精神があるのであれば、こうはならない。
それが可能であれば、客観世界に有り得るあらゆる事象を愛することが出来るはずである。
しかしそれは叶わない。私は自らと違う存在と対面したとき、必ず「好ましいか好ましくないか」を区別しているのである。

さて、正しさとは一体何だろうか。
これは軸となるべきものをすげ替えることでいくらでも生産可能な事象であると私は考える。
「私」を軸とすれば「犯罪者」は「正しさ」を欠いたとはならない。
「社会」を軸とすれば「犯罪者」は「正しさ」を欠いている。
つまりこれは客観世界においていくら重要な事象であろうとも、個人世界ではそれ程大きな力を持たないのではないだろうか。
「まったくない」と何故断言しないのか、それはそれを判断する自意識もまた、正しさを生産しているためである。

つまり、どの世界にも通用する絶対的な正しさは個人的に確認する事が出来ない。
これを追い求める学問もあるのかもしれないが、私には「絶対的な正しさ」が存在しているという仮定そのものが信じられない。

さて、私はこんな話をするとき、「自分の言っていることは徹頭徹尾間違っている」と感情的に宣うことがあるが、それもまた有り得ない。
絶対的な正しさが確認できないのと同義的に、絶対的な間違いも私には確認できないのである。
つまり私という自意識が判断しうる限りにおいて、それは0と1を含まない、0と1の間で揺蕩うだけのものでしかない。
あらゆる「良い」と「悪い」という判断も然るに。
私が映画を見て「良い」と感じたとする。その「良い」は現在に置ける私の自意識が判断し得る領域を超えない。
賢人が残した哲学書や小説を読んで「その通りだ」と感じたとしても、それは同じである。

所詮、自意識は「好ましい」か「好ましくない」といった場当たり的な分別から逃れられないのではないだろうか。
その時の私がそれを「好ましい」と感じた精神は、「正しい」のか。
こういったものの捉え方をし始めると、やがてあらゆるものが自らの中で同一になってゆく。
すべては「正しい」し「正しくない」。
すべては自意識による反応で、現時点に置ける「好ましい」と「好ましくない」に分別されてゆく。

では、他者との交流に一体どんな価値を見い出せばよいのだろうか。
結局の所「好ましい」「好ましくない」の分別が起こるだけなのであれば、それはどこで何をしていても同じ働きの中にあるだけではないのか。

この件についての決着は、今のところ無い。
無い、というか、抗えない、といった方が正しいかもしれない。
「好ましい」と「好ましくない」の分別を「好ましくない」と感じている自意識に気が付いた時に、とうとう袋小路に落ちてしまった。

唯一、現時点で私が視認しうる限りにおいて光があるとすれば、それは他者から受け取る「感情」について。
他者から受け取る「感情」が、件の「好ましい」「好ましくない」の分別の外部にある価値だとするならば、私にとってそれ程嬉しいことは無いだろう。

しかし今はまだ闇の中。
ひたひたと歩く地面の先に、一点の光すら確認は出来ない。

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