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2019-05-19-Sun-19:33

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さて、ここに再臨。
ぼんやりとした頭で考えたことを以下に羅列する。
興味があればどうぞ。


私は現在の社会と折り合いが上手くつかない。
その結果から自らが社会にとってマイノリティであるという了解がある。
その程度については知る由もない。私はマジョリティについての理解が乏しいため、それを測る指標は他者に委ねる他無い。

社会とはマジョリティによって作られる。
現代社会の頂点は曖昧であり、たった一つの何かに縋らない。
よって皆皆して責任の所在は追求しない。できない、といった方が良いかもしれない。
頂点に君臨するものが明らかであれば、社会のマジョリティにとって違いと認識された場合にそれは排除される。かつての独裁政治や共産主義が窮地に追い込まれると、社会は明らかな上位者に責任を追求し排除する。
現在の社会は上位者が曖昧なため、これを追求する先は無い。

上位者が明らかな社会であれば、その上位者を理解することで、対応して社会を理解出来るように思われる。例えば国の在り方が宗教を軸としていた時代であれば、経典に従うことでマイノリティからの離脱が叶う可能性がある。
しかし現代社会には経典が無い為、日々揺蕩う曖昧な取り決めに従って生活をしていないと、周囲からは排除される。

例えば、「空気が読めない」という言葉がある。
空気は本来見えないので、読むことも叶わないではないか!
彼らは空気が見えているというのか……?
冗談はさておき、ミクロな社会は空気が読めない人間を内側から排除する働きを持つとする。
私も同じような事を言われた経験があるが、これについてどういう意味か相手に質問すると、「言わなきゃ分からない?」や「そういうところが良くない」などと突っぱねられてしまい、説明をしてもらえた試しが無い。
好意的な人であれば「言われてみれば言語化は出来ない」と答えてくれたりもする。
「空気を読む」という現代社会の経典については、厳密な取り決めは無く、ミクロな社会によって変容し得る曖昧な倫理観と言える。

「曖昧さ」、私はこれが現代社会のマジョリティが持つ性質の根幹にあると考えている。
本質が曖昧なため、それを明確に説明することは恐らく叶わない。
そして彼らはそれを曖昧だとは思っていない、というエゴイズムが存在するのではないかと考えてもいる。
例えば「愛」という言葉がある。
愛は言語として上位層に当たる言葉であると私は考える。
含まれる意味は個人的なものであり、そのどれもが正しい。
愛という言葉を分解しようと試みる。私は愛とは「同一化への欲」だと考えるが、そんなことを言いだしたら社会から排除されるかもしれない。
例えばエンタメ作品でこれを分解しようとする物はまず無い。
愛とは愛であるだけで良く、愛とは何なのかという疑問はそこに含まれない場合が多い。
(勿論、この哲学を含む作品も0ではないが、これは傾向の話)
つまりは曖昧なのである。曖昧は曖昧なままでよく、曖昧であるという自覚すらも曖昧でよく、あらゆるものを曖昧にしていくほどに社会との折り合いは付きやすいのではないかと私は考えている。
では私はどうなのか、という疑問については、確かにこれも曖昧であるが。

あらゆる「論争」は倫理観の対立によって成立する。
皆々して自らと異なるものを受け入れられず、自らと同一でないと満足が出来ないのである。
倫理は個人によって異なるものであるが、人は自らの倫理を社会の倫理として主張する場合も多い。
これは自らの倫理と社会の倫理が混合している状態であると私は思う。
自らの倫理を社会の倫理に変換することで、自分という存在を論争の外側へ追いやる。すると「社会はこうあるべきじゃないですか」とか「普通はこうでしょ」といったように主体を曖昧にしたまま戦える。
他者を自らと同一化したいという欲があることは事実のように感ぜられるが、それもまた断言は出来ない。
私達は他者と同じになろうとあらゆる努力を惜しまないが、自意識は感覚所与の外側へ行けない時点で完全に同一となるのは不可能なのである。
これは絶対的であると私は考えている。人はどんなに言葉を弄しても、どんなに他者を近くに感じようとも、同じにはならない。一つ一つが別の自意識である。
余談であるが、新世紀エヴァンゲリオンには件についての哲学が含まれていると私は思う。

私については、互いが同じになれない、という諦念が前提にある人とは気が合うことが多い。
そういった人は他者に対して自らとの同一化を迫らない為である。ではコミュニケーションは何のためにするのか、という疑問については、やはり「欲」がある事だけは確かでありそれを解消したいが為ではないかと考えている。私はこれを「同一化ごっこ」と個人的に呼んでいる。
逆に自らと同じにしたがるタイプの人間とは気が合わない場合が多い。
例えば先述で語ってきた言葉を他者に投げかけた時に、「考え過ぎだ」とか「病院に行ったほうが良い」などという言葉が帰ってくると、私はその時点で心を閉ざす。その相手には恐らく一生本気で話をしなくなってしまうだろう。
彼らには「人とはかくあるべき」という曖昧な倫理観があり、それを私に押し付けることは正しいという理解があるのだと思われる。
私にとっては「かくあるべき」何かなどは無い。
人は個人的な生き物であり、人は何でも良いと考えている。
個人の状態は社会生活との折り合いの是非に関わるというだけである。
犯罪者は社会にとっての違いであるが、私はどんな犯罪者に対しても「社会悪」ではあっても「悪」だとは思わない。
善と悪は倫理が無ければ成立しない。
私の中にある倫理観では、善と悪を図る指標は殆ど無い。

社会に存在する曖昧な「正しさ」に排斥された人生であったが故に、これを恐怖する心は常にあるが。

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