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2019-05-29-Wed-12:04

【 - 】

どうやら私は生まれ変わったらしい。
私は目覚めて一番目に、そんな得心を得た。
屋根の形に沿って、斜めに突き出る天井の壁紙に目をやりながら、それがどのくらいの時間を経て黄色っぽくなったのかを想像しながら、そう思った。
重たい体を何とか動かし携帯電話を手にとって、時間を確認する。
午前四時半。
もう起きても良いし、まだ起きなくても良い。
そんな出鱈目に優しい言葉を自らに投げかけて、しばらくその場で横になっていた。

寝起きのぼんやりとした頭ですることは全く無軌道であり無秩序だ。
私は携帯電話で十年前にプレイしていたMMOの、プレイしていた当時の晒しスレッドを眺めていた。
はっとしてアイフォンのホームボタンを押してから、どうやら今の私がこの場で手に入れられる限りにおける、郷愁めいた感情を欲していたらしいと結論付けた。
ロフトから降りて椅子に座る。
私は獣のように顔を両手で洗ってから、言語化出来ないようなうめき声を挙げて机に突っ伏した。
およそ四秒の後、顔を上げると煙草に手を伸ばして火を着けた。

外はまだ暗い。
四角い黒に目をやりながら、私は既に死んだ昨日の自分のことを想う。
彼は失敗し、敗北し、間違い、矛盾し、自らの正しさを全う出来ずに死んだ。
今はもう、自身が矛盾せずに生きていくのは不可能だと感じている。
そんな青臭い時代もあったものだと思っている。
正しさに対して心酔し盲信し気が狂っていたと考えている。

私という自意識は自動人形的に繰り返す二重らせんの中にある。
今の私は何度目だろうか。もうそれも、分かりはしない。
ただ一つわかっていることは、私は敗北し続けているということだけだった。

四角い黒がこちらを見ている。
彼はやはり何も言わず、何もしない。
2019-05-26-Sun-14:28

【 - 】

近頃の私はあることについて悩んでいる。
それは「正しさを求める意識に抵抗するか否か」というものである。
私の意識は常に揺蕩い曖昧であるが、しかし主観的、客観的な意識の差異による結果の如何に関わらず、常に「正しさ」を求めようとするのは事実である。

「例えばだが、今の私は倫理による群集心理作用的な対立を嫌悪する。
これを発表する時点で私も同じ事をしているとも取れるが、それはあくまで例えなので見逃して欲しい。」

上記二行の文章は現在の私が如何に正しさを求めようとしているか確認するのに的確である。
特に二行目、自身が抱える矛盾点を看過出来ないというのは、どの程度意識的に正しさを求めているかが伺える。
しかし常に「正しくある」というのは、些か連続性を持たない人の意識には荷が重すぎる。
現在の私はある程度個人的な意識作用によって思考することが可能だが、それはあくまで環境に依存するものでもあり、現在の生活がそれを促す要素を持っているというだけではないかと考えている。
一度群衆の中へ紛れると、個人的な意識作用はいともたやすく消滅し、群衆的意識の中へ呑まれていくことは必至だと思われる。
つまり私が現在の正しさを貫くに当たっての最低条件は、「個人」としての状態を維持し続けていく他に無いのである。
その最低条件はあらゆる倫理観の放棄、共感覚の消失、社会生活の破壊を意味する。
そこにしか生きる道が無いと飛び込んだ先で、しかしそこに何もない可能性の方が遥かに高いと思われる。
そして何よりもまず、私自身はもともとそれ程正しくないという問題もある。

ある哲学者の先生が仰っていたが、「勉強」を持続するには「バランス感覚」が必須なのだそうだ。
そこにしか活路がないと飛び込んでくる人間の殆どは、持続性が無く折れてしまう傾向が高いらしい。
それはいかにもこれからの私が迎えそうな姿である。何よりもまず、私は集中力や持続力が無いのである。

では何かに拘泥するのを諦め、同一や共感覚の世界に身を委ね、皆々と混じり合っていくことを目指すべきであろうか。
しかしこれも結局のところ、叶わなかった結果が現在なのである。
そもそも私はそれが分からなかったからここに居るに過ぎず、皆々と同じになれるのであればそちらに居たかった。
再びその努力を再開するには、些か苦痛がある。

持続力が無く、集中力が無く、共感覚についての理解も乏しく、バランス感覚も無く、自らが求める正しさの追求も苦しい。
このような人間は一体どのように生きるべきなのでろうか。
答えは分かりきっている。まず社会的な回答としては、能力が低い者は、何もすべきでないのである。
そのために私は群衆から離れ、個人的に生きる道を選んだが、哲学や文学に生きる意義を求めるのもやはり苦しい。私は如何に個人的になろうとも、こうしてこれをここに発表し、つまり誰かと同一になりたいという欲求を捨てきれない。何か物語を書いて、しかしそれを誰も読まないとなると、やはり苦しい。

生きることは常に不条理だ。
何もかもを諦め、徹底的に諦め、不条理という行き先の見えぬ船上にて、霧の中で揺蕩う白波に目をやりながら、ぼんやりと生きていくしかないのだろうか。
そんなことを考える現在の私は、こうしてここに死んでいくのである。

2019-05-21-Tue-08:19

【 - 】

一日に二度も更新をするとは、全く私はどうしようもない存在である。
しかしどうやら普段私が極めて個人的に行っている執筆活動をこのブログで続けることに、どうやら私は味をしめたようなのだ。
客観世界に置ける居場所が必要なのと同時に、精神世界にも居場所が必要だと私は考えている。
デジタルな世界はこうした精神的な居場所を創造、或いは模倣出来るように思われる。
まあ、とにかく全く意味を成さない言葉を再び並べ立ててゆく。
聡明な諸君にはここで読むのを中止し踵を返すことをオススメする。
これ以上読むのだとしたら、あなたは聡明でない可能性がある。
フォローのつもりではないが一つ付け加えると、私は聡明でない人の方が好きである。

近頃考えたあることをここに記す。
私がしていることは極めて個人的な精神活動であり、それは哲学であるのかもしれないし、或いは哲学マガイのインチキであるのかもしれない。
しかし考えたことは不思議と言語にしたくなる。
これは先日の記事にも書いた通り、私にも同一化への欲望が存在しているからだと思われる。
その欲望は自意識の内側のみに向けて放つことも可能だが、外側に向けることで一層満たされるという実感がある。
それは本来そこにあるべきである「他者との同一」が満たされるからである。
この欲望は内面のみに向けて何を放っても満たされない。満たされたような気になるのが関の山である。

しかし私はこうも思う。
このブログでの記事もそうだが、あらゆる発表に際して、「好ましくない」という自らに対する曖昧な認識がある。
他者と実際にこういった話をしていても思う。私は酷く間違っているのではないかと感じる。
それが「絶対的な悪」であるかどうかは確認も出来ない上に重要でもない。
重要なのは私が一体何に「自責」を抱いているか、という点である。
少し考えたが答えは出ない。私はあらゆる事に答えを見いだせないほどにはやはり愚かなのである。

ある哲学者の本を読んでいて、近頃の私が考えていた件についての新しい情報を手に入れた。

「生物の営みに反している哲学という行為は、決して高級ではなく下品なものだ。ワイセツなものだ。」

私はどうもここのところ抱えていたもやもやとしたものに一筋の光をこの言葉から得たように感じた。
というのも、私が感じる自責は「発表」を伴っているものばかりだと気が付いたのである。
この言葉が正しいかどうかはさして重要でない。重要なのは私が言葉を得る事で気付きを手に入れたことである。
これは明らかに私の中にもあった感覚であった。しかし言語化が出来ずにもやもやとした感覚だけがそこにあった。
私がしている事や考えている事は決して「高級ではない」。
しかし私はこうして朗々と「下品」な言葉を外部に向けている。
それは正に「ワイセツ行為」に他ならず、更に言うとそれを隠している事にも自責を感じていたのだと思われる。

他者にとって好ましいか好ましくないかは、私が考えるべき事ではない。
しかし私は明らかに「下品」だという自覚の元にそれを外部へ向けていたことは純然たる事実である。
多くの他者にとってそれが「無意味」なのも自覚している。

では、私は発表を辞めるべきであろうか。
それも一つの手かもしれない。しかし上記に際して未だ私は答えを得ていないのも事実である。
得たのは自らが「下品」なことをしているかもしれない、という認識のみである。

よってここは曖昧に決着を着けたいと考えている。
私は毎度このような言葉を残す度に、「下品な場所だから引き返せ」と訪問者へ忠告をする。
そのお膳立ての上で朗々と下品な言葉を外部へ発表する。

一体誰に対する忖度であろうか。
それは私があらゆる他者を畏怖しているからに他ならず、忖度は全世界にある他者へ向けられている。
要するに、私は他者から排斥されるのが恐ろしいだけなのである。
2019-05-21-Tue-02:03

【 - 】

前回の記事を読み返していて、自らに対する指摘がやや少なく感じた。
よって適当に追記していこうと思う。
ここに書かれるあらゆる言葉は、誰の耳にも、誰の眼にも、誰の心にも、留まるべきものでない。
しかし興味があるのだとしたら、私としてはそれほど嬉しいことは無い。

前回の記事で私は、「他者を自らと同一にしなければ気が済まない人が苦手」だと書いた。
そして「そういった相手とはまともに取り合わなくなる」という意味の言葉も書いた。
私が常々畏れている排斥について、私もまた同じようにそれを排斥しているのである。
私は社会にとってマイノリティであるという自覚があり、加えて異なる自意識は完全なる同一化が不可能な現象であると了解もしている。
もし、私が徹底して「排斥」について嫌悪する精神があるのであれば、こうはならない。
それが可能であれば、客観世界に有り得るあらゆる事象を愛することが出来るはずである。
しかしそれは叶わない。私は自らと違う存在と対面したとき、必ず「好ましいか好ましくないか」を区別しているのである。

さて、正しさとは一体何だろうか。
これは軸となるべきものをすげ替えることでいくらでも生産可能な事象であると私は考える。
「私」を軸とすれば「犯罪者」は「正しさ」を欠いたとはならない。
「社会」を軸とすれば「犯罪者」は「正しさ」を欠いている。
つまりこれは客観世界においていくら重要な事象であろうとも、個人世界ではそれ程大きな力を持たないのではないだろうか。
「まったくない」と何故断言しないのか、それはそれを判断する自意識もまた、正しさを生産しているためである。

つまり、どの世界にも通用する絶対的な正しさは個人的に確認する事が出来ない。
これを追い求める学問もあるのかもしれないが、私には「絶対的な正しさ」が存在しているという仮定そのものが信じられない。

さて、私はこんな話をするとき、「自分の言っていることは徹頭徹尾間違っている」と感情的に宣うことがあるが、それもまた有り得ない。
絶対的な正しさが確認できないのと同義的に、絶対的な間違いも私には確認できないのである。
つまり私という自意識が判断しうる限りにおいて、それは0と1を含まない、0と1の間で揺蕩うだけのものでしかない。
あらゆる「良い」と「悪い」という判断も然るに。
私が映画を見て「良い」と感じたとする。その「良い」は現在に置ける私の自意識が判断し得る領域を超えない。
賢人が残した哲学書や小説を読んで「その通りだ」と感じたとしても、それは同じである。

所詮、自意識は「好ましい」か「好ましくない」といった場当たり的な分別から逃れられないのではないだろうか。
その時の私がそれを「好ましい」と感じた精神は、「正しい」のか。
こういったものの捉え方をし始めると、やがてあらゆるものが自らの中で同一になってゆく。
すべては「正しい」し「正しくない」。
すべては自意識による反応で、現時点に置ける「好ましい」と「好ましくない」に分別されてゆく。

では、他者との交流に一体どんな価値を見い出せばよいのだろうか。
結局の所「好ましい」「好ましくない」の分別が起こるだけなのであれば、それはどこで何をしていても同じ働きの中にあるだけではないのか。

この件についての決着は、今のところ無い。
無い、というか、抗えない、といった方が正しいかもしれない。
「好ましい」と「好ましくない」の分別を「好ましくない」と感じている自意識に気が付いた時に、とうとう袋小路に落ちてしまった。

唯一、現時点で私が視認しうる限りにおいて光があるとすれば、それは他者から受け取る「感情」について。
他者から受け取る「感情」が、件の「好ましい」「好ましくない」の分別の外部にある価値だとするならば、私にとってそれ程嬉しいことは無いだろう。

しかし今はまだ闇の中。
ひたひたと歩く地面の先に、一点の光すら確認は出来ない。
2019-05-19-Sun-19:33

【 - 】

さて、ここに再臨。
ぼんやりとした頭で考えたことを以下に羅列する。
興味があればどうぞ。


私は現在の社会と折り合いが上手くつかない。
その結果から自らが社会にとってマイノリティであるという了解がある。
その程度については知る由もない。私はマジョリティについての理解が乏しいため、それを測る指標は他者に委ねる他無い。

社会とはマジョリティによって作られる。
現代社会の頂点は曖昧であり、たった一つの何かに縋らない。
よって皆皆して責任の所在は追求しない。できない、といった方が良いかもしれない。
頂点に君臨するものが明らかであれば、社会のマジョリティにとって違いと認識された場合にそれは排除される。かつての独裁政治や共産主義が窮地に追い込まれると、社会は明らかな上位者に責任を追求し排除する。
現在の社会は上位者が曖昧なため、これを追求する先は無い。

上位者が明らかな社会であれば、その上位者を理解することで、対応して社会を理解出来るように思われる。例えば国の在り方が宗教を軸としていた時代であれば、経典に従うことでマイノリティからの離脱が叶う可能性がある。
しかし現代社会には経典が無い為、日々揺蕩う曖昧な取り決めに従って生活をしていないと、周囲からは排除される。

例えば、「空気が読めない」という言葉がある。
空気は本来見えないので、読むことも叶わないではないか!
彼らは空気が見えているというのか……?
冗談はさておき、ミクロな社会は空気が読めない人間を内側から排除する働きを持つとする。
私も同じような事を言われた経験があるが、これについてどういう意味か相手に質問すると、「言わなきゃ分からない?」や「そういうところが良くない」などと突っぱねられてしまい、説明をしてもらえた試しが無い。
好意的な人であれば「言われてみれば言語化は出来ない」と答えてくれたりもする。
「空気を読む」という現代社会の経典については、厳密な取り決めは無く、ミクロな社会によって変容し得る曖昧な倫理観と言える。

「曖昧さ」、私はこれが現代社会のマジョリティが持つ性質の根幹にあると考えている。
本質が曖昧なため、それを明確に説明することは恐らく叶わない。
そして彼らはそれを曖昧だとは思っていない、というエゴイズムが存在するのではないかと考えてもいる。
例えば「愛」という言葉がある。
愛は言語として上位層に当たる言葉であると私は考える。
含まれる意味は個人的なものであり、そのどれもが正しい。
愛という言葉を分解しようと試みる。私は愛とは「同一化への欲」だと考えるが、そんなことを言いだしたら社会から排除されるかもしれない。
例えばエンタメ作品でこれを分解しようとする物はまず無い。
愛とは愛であるだけで良く、愛とは何なのかという疑問はそこに含まれない場合が多い。
(勿論、この哲学を含む作品も0ではないが、これは傾向の話)
つまりは曖昧なのである。曖昧は曖昧なままでよく、曖昧であるという自覚すらも曖昧でよく、あらゆるものを曖昧にしていくほどに社会との折り合いは付きやすいのではないかと私は考えている。
では私はどうなのか、という疑問については、確かにこれも曖昧であるが。

あらゆる「論争」は倫理観の対立によって成立する。
皆々して自らと異なるものを受け入れられず、自らと同一でないと満足が出来ないのである。
倫理は個人によって異なるものであるが、人は自らの倫理を社会の倫理として主張する場合も多い。
これは自らの倫理と社会の倫理が混合している状態であると私は思う。
自らの倫理を社会の倫理に変換することで、自分という存在を論争の外側へ追いやる。すると「社会はこうあるべきじゃないですか」とか「普通はこうでしょ」といったように主体を曖昧にしたまま戦える。
他者を自らと同一化したいという欲があることは事実のように感ぜられるが、それもまた断言は出来ない。
私達は他者と同じになろうとあらゆる努力を惜しまないが、自意識は感覚所与の外側へ行けない時点で完全に同一となるのは不可能なのである。
これは絶対的であると私は考えている。人はどんなに言葉を弄しても、どんなに他者を近くに感じようとも、同じにはならない。一つ一つが別の自意識である。
余談であるが、新世紀エヴァンゲリオンには件についての哲学が含まれていると私は思う。

私については、互いが同じになれない、という諦念が前提にある人とは気が合うことが多い。
そういった人は他者に対して自らとの同一化を迫らない為である。ではコミュニケーションは何のためにするのか、という疑問については、やはり「欲」がある事だけは確かでありそれを解消したいが為ではないかと考えている。私はこれを「同一化ごっこ」と個人的に呼んでいる。
逆に自らと同じにしたがるタイプの人間とは気が合わない場合が多い。
例えば先述で語ってきた言葉を他者に投げかけた時に、「考え過ぎだ」とか「病院に行ったほうが良い」などという言葉が帰ってくると、私はその時点で心を閉ざす。その相手には恐らく一生本気で話をしなくなってしまうだろう。
彼らには「人とはかくあるべき」という曖昧な倫理観があり、それを私に押し付けることは正しいという理解があるのだと思われる。
私にとっては「かくあるべき」何かなどは無い。
人は個人的な生き物であり、人は何でも良いと考えている。
個人の状態は社会生活との折り合いの是非に関わるというだけである。
犯罪者は社会にとっての違いであるが、私はどんな犯罪者に対しても「社会悪」ではあっても「悪」だとは思わない。
善と悪は倫理が無ければ成立しない。
私の中にある倫理観では、善と悪を図る指標は殆ど無い。

社会に存在する曖昧な「正しさ」に排斥された人生であったが故に、これを恐怖する心は常にあるが。

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